ヒストグラム
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初代首相の伊藤博文(1841〜1909)が参議兼内務卿だった明治初期、警視局大警視(初代警視総監)の川路利良(1834〜1879)あてに送った書簡が、東京都新宿区の御霊神社で見つかった。 書簡を調べた国立国会図書館によると、1878(明治11)年の文書で、自由民権思想家の植木枝盛(1857〜1892)を国事犯として警戒するやり取りの一部だった。 「日本警察の父」と呼ばれる川路の元には当時、公安情報が集中したとされてきたが現存史料は乏しかった。 国会図書館の担当者は「川路あて書簡の発見は珍しく、貴重」と話している。 書簡は縦19a、長さ43aの巻紙に墨書され、冒頭に「川路殿 博文」とあり、「拝復 六月六日」と結ばれている。 国会図書館は、川路から伊藤あての書簡83通を保存しているが、伊藤から川路あての書簡が見つかったのは初めて。 照合したところ、1878年6月6日付の返信書簡と分かった。 郵便でなく、使者が届けたとみられる。 同年5月に参議兼内務卿の大久保利通が不平士族に暗殺され、伊藤は後任の参議兼内務卿に就任。 一方、東京警視庁を創設した川路大警視は前年に同庁が内務省に統合され、警視局大警視として全国警察を統轄していた。 このため伊藤と川路は上司と部下として日々、公安情報などを交換する関係にあった。 大久保暗殺直後の2人は不平士族の動きに警戒しており、民権思想を広めるため全国遊説中の植木の動きも警戒していた。 岡山県入りした植木について、川路が地元県令(現在の知事)に「注意の上に注意」と指示したことを、伊藤に伝える書簡も残る。 発見された書簡もそうした生々しいやり取りの一部。 伊藤は「植木枝盛には国事犯であるとの証拠がないとの電報が、岡山県令から到来したとのことを知らせていただき、承知いたしました」としたためている。 植木はこの後、警察への出頭要請に応じたが拘束はされず、全国遊説の日程を無事終えた。 植木は自由民権運動の理論的指導者で、1881(明治14)年には板垣退助らと我が国最初の政党の一つ、自由党の結成に参画する。
◇聖心女子大の佐々木隆教授(明治史)の話 「公安の父」とも呼ばれた川路は筆まめで、伊藤や大久保に出した書簡が多数残る。 しかし、その反対にもらった書簡が見つからない人物としても知られている。 研究者の間でも川路あて書簡の現物は知られておらず、価値ある発見だ。
御霊神社の宮司が終戦直後、川路大警視の曽孫から譲り受け 発見された書簡は、御霊神社の宮司、磯部芳直さん(92)が終戦直後、川路大警視の曽孫、利信さんから譲り受けたものだった。 戦後、利信さんらは新宿区内に住み、よく同区内の御霊神社を1人で参拝に訪れた。 磯部さんが綿布など生活必需品を援助したこともあった。 1948年ごろ、利信さんは「うち(川路家)にあるものを差し上げます」と、磯部さんに書簡を託した。 まもなく利信さんと連絡が取れなくなった。 記者が調べた結果、利信さんは1977年に67歳で亡くなっていた。 家族は、書簡の存在を知らなかった。 利信さんの長男利永(としひさ)さん(56)は御霊神社を訪れ、初めて書簡を手にした。 「利良あての多くの書簡は戦災で焼失したと聞く。これはよく残った。父の遺志だと思うので、神社で保存してほしい」と感慨深げに話した。 今後、書簡は、神社の社宝として拝殿に納められるという。
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